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逢瀬日記

ご主人様との出会いから今迄。 後天性被虐趣味なわたしの手記。

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愛し合う

よく、SE/Xのことについて、
「愛し合う」という表現を使用することがありますが、
私にとってそれは、
もどかしく、
ぎこちない、どこか遠い言葉のように感じます。

性行為は性行為。ただそれだけのこと。

それは、きっと、私に、
「愛」という言葉が、縦のつながりよりも
横のつながりの方を意識させるからだと思います。
家族への愛や、恋人への愛、
対等に互いを認め合う関係での愛。


では、
縦のつながり、
主従における愛は、どういう存在なのでしょう。


ご主人様が私に施すものは、
はじめは「愛」ではないと思っていました。
そして性行/為自体も愛がなすものとは思っていませんでした。
「欲望の捌け口、
非日常のスリル、
相手が誰であっても同じ、
それがたまたま今は私だというだけのこと」と。

逢瀬やご命令を通し、
私の情けなさや、弱さ、いやらしさを
剥き出しにさせて、
ひりひりしているところに、
さらに丁寧に塩を塗り込むような、
その上鞭打つような、
痛みをよく与えられました。
そして苦しんでいる様子をみて、
さらに深い痛みを与えられました。
それはむしろ、愛などが介在しては、
とてもこんなふうにはできないと思う位に・・・。

今から思えば、
ご主人様の、調教願望があって、
私の、主従への憧れ・興味があって
始まった関係ですけれど、
それは・・・そういう願望があれば、
相手は私でなくてもよかった種類の関係かもしれないけれど、
私の中に、「この女を調教をしたい」という
何かを感じ取っていただいているから、
呼んでいただけているのかなと思うこともあります。

その揺り返しの中に居ます。

「ご主人様の欲望をそそるなら、私でなくてもいい、
今はたまたまその場所に私がいただけ、
私自身に、ご主人様にとって特別な愛は存在していない。」

「ご主人様が私を呼んで下さるということは、
今この瞬間は、私が求められているということ。
ご主人様の中に、私自身が居るということ。
想いがあるということ。」

気持ちが不安定になるときは、いつもその両方を思い、
愛の存在について疑ったり、否定したり、期待したりしました。
これから綴っていく先にも、私の気持ちの揺れを書くことも
多くなるでしょうが、
これを書いている今では、やはりどちらも存在すると思うのです。

「ご主人様は、きっと私以外でも奴隷になりたい女や
調教したいと感じる女が居れば、
調教をするだろうし、
それに関して私はご主人様へ口出しする権利はない。
私だけが特別な愛を受ける女というわけではない。」
でも、愛されたいと思っている

「ご主人様が調教をするときは、
信念を持って、相手のことを本当によく見ておられる。
だから、ある意味、愛がないと出来ないことをしている。
苦痛を与えるのも、その段階でどこまで
ついていけるか、耐えうるかをコントロールしている。
愛がないと、簡単に壊してしまうような
関係のぎりぎりを生きている。
ご主人様の調教欲をそそる対象は、
ご主人様が相手についてよく知って
掌握したいという対象と同義であり、
その興味の深さは愛と呼べるのではないか、
愛が生じ、欲望が深まるのではないか。
一般的な“女”に対してではなく、
“私”に対して、施したい調教というものが
存在するのではないか」
でも、それほどには愛されていないと思っている

ゆらゆら揺れて、その不安定の中で関係は
絶えず変化し、
時間を積み重ねていくのです。
私は変わり、
ご主人様もまた、変わり、
関係のなかから、いろいろなことを
感じ、知るのです。
いままでひとりでは思いもしなかったことや、
見ないようにしてきたことを。

従属の愛なら、最近やっと分かりかけてきました。
信じ、ついて行くこと。
受け入れること。
少しの言葉や振る舞いから、意味を考えること。
尊重すること。
ご主人様のすべてを。

支配の愛は・・・。
まだよく分かりませんが、
愛さないことも愛だと思えるようになりました。
横のつながりの愛を持たないようにすること、
冷静に見つめること。
赦すこと。

つまり、私の愛とご主人様の持っている愛は、
主従、上下関係で生まれるものなので、
どこまでいっても、
愛し合えないものだと気付きます。

それでいいのです。
私は私の愛を信じて、私のやり方で愛すればいい。
ご主人様はご主人様のご自身の愛を信じて、
それだけを見ていればいい。
同じ愛をシェアするわけではないから、
「愛し合う」には違和感があったのかもしれません。

私たちは愛し合えない。
私たちはどこまでいっても愛し合えない。
私たちは同じ立場に居ないから。
互いの愛の存在を信じるだけ。
感じようと努力するだけ。
受け入れるだけ。
それはきっと寂しいことではない。
今なら尊いことだとさえ感じることが出来る。
「愛し合えない」ということを身体と心で理解して
はじめて、
主従の愛は始まるのかもしれない・・・。

以前、奴隷教育でも、書きましたが、
私たちが作ろうとしている関係は
巷に溢れる一般的な感覚のLOVEと同じものではないですが、
それは確かにLOVEで、
LOVEとエロスは同時に存在すると、今では信じることができます。

主の愛は、私が勝手に推し量れるものでは
ありませんが、
逢えないとき、
言葉を交わせないとき、
主の存在を感じるのが困難になっているとき、
そんなふうに、思考の海で遭難するのです。

私たちに愛はどのような形で存在しているのか、
主はどんなふうに受け止めているのか、
私はどこまでついていけるのか、
詮無いことを思い巡らし、
ひとりぼっちで漂流するのです。














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